南アW杯では5割を占めたアテネ世代
それでも、直後の2002年アジア大会(韓国・釜山)での準優勝を経て浮上のきっかけをつかみ、田中マルクス闘莉王(京都)の帰化などで選手層が厚くなる。UAEラウンドで原因不明の集団下痢事件が起きた2004年アテネ五輪アジア最終予選を乗り越えて、何とか本大会切符を手に入れた。
だが、「黄金世代」に特別な思い入れのあった山本監督は五輪本番に向けて、小野と曽ケ端準(鹿島)を招集。最終予選でキャプテンを務めた鈴木を外した。そのマイナス影響もあったのか、初戦・パラグアイ戦でつまずき、イタリア戦で連敗となり、早々とグループステージ突破の夢がついえることになった。第2戦での敗退は、2001年ワールドユースと同じ。「谷間の世代」はその後も重い十字架を背負わなければならなくなったのだ。
2006年ドイツワールドカップの後、日本代表の指揮を執ったイビチャ・オシム監督が阿部、鈴木啓太、駒野らを軸に据えた時も、「黄金世代が多かったジーコジャパンより期待が薄い」というネガティブな見方をされていた。
オシムジャパン時代には、本田圭佑(パチューカ)、伊野波雅彦(神戸)ら北京五輪世代も徐々にA代表に呼ばれ始め、81年組は上と下の板挟みになりつつあったから、低評価もやむを得なかった。
けれども、こうした苦境にめげず、「谷間の世代」はじっと耐え、ブレずに地力を蓄え続けた。オシム監督が倒れ、2008年から岡田武史監督(FC今治代表)が再登板した後もその流れは続いた。
日陰の存在であり続けた「谷間の世代」が一気にブレイクしたのが、2010年南アフリカワールドカップだった。日本は国外開催のワールドカップで初めてグループステージを突破し、ベスト16まで進んだ。
その主力に名を連ねたのは、闘莉王、駒野、阿部、松井。1つ年下の大久保と川島、2つ年下の長谷部誠(フランクフルト)を含め、出番のなかった岩政大樹(東京ユナイテッド)も81年組の早生まれであり、出番の少なかった今野、矢野貴章(新潟)もアテネ世代。登録メンバー23人の5割近くを占める一大勢力となったのだ。