原口から受け継いだ24番は「何か特別な番号にはしてほしい」
前出のアルディージャ戦に続き、超満員の埼玉スタジアムに鹿島アントラーズを迎えた5月4日の第10節も連続して0‐1で負けた試合後の取材エリア。関根は珍しく無言のまま通り過ぎている。
レッズの力になれなかった自分が不甲斐なく思えて、仕方がなかったのだろう。実際、十代のころの記憶を必死に紐解きながら、アルディージャ戦前にはこんな言葉とともに決意を新たにしていた。
「アカデミー育ちの選手が、ああいう気合いの入ったゴールというものを見せなきゃいけない。あのときはスタジアムには行っていませんでしたけど、しっかりと覚えているので」
あのとき、の舞台は2011年6月11日のNACK5スタジアム大宮。2点のビハインドを追いつき、ドローにもち込んだ「さいたまダービー」で殊勲の同点弾を決めたのが原口だった。
左サイドからドリブルで侵入しながら、ペナルティーエリア内で2人がかりのプレッシャーを受けて倒される。しかし、ピッチに転がされた体勢でも左足を振り抜く、執念のゴールをレッズの歴史に刻んだ。
当時の関根はユースに昇格したばかりの高校1年生。鳥肌が立つほど感動させられたからこそ原口の勇姿に憧れ、華麗なテクニックに泥臭く、気持ちのこもったプレーを融合させられる選手を目指した。
最終的には9ゴールをあげた2011シーズンを含めて、原口は「24番」を5年間にわたって背負った。そして、原口がドイツへ旅立った翌2015シーズンから、関根は志願して「24番」を背負ってきた。
「(次は)誰がつけるんですかね。やっぱりユース出身の子につけてほしいし、それがドリブラーだったらいいなとは思いますけど。そういう何か特別な番号にはしてほしいな、と」
熱い思いを後輩に託したいからこそ、旅立ちに花を添えるゴールを決めたかった。関根本人をして「空回りしていた」と言わしめ、堀監督や柏木を苦笑いさせた理由はここになる。