ゲルバスとはいつも一緒に移動。まさに一心同体
アウェイで自走するのは、一番遠いところで名古屋まで。ただ最初の頃は、九州も準ホームタウンになっていたでしょ? 長崎、熊本、それと鹿児島か。川崎からゲルバスをフェリーに載せて、宮崎あたりで上げてから空港で選手の皆さんを迎えに行きましたよ。
フロントの人からは「山田さんも選手と飛行機移動でいいですよ」って言われたけど、ゲルバスだけってわけにはいかない。ですから、いつも一緒に移動していました。まさに一心同体でね。
アウェイといえば、よく対戦相手のバス仲間に助けてもらいましたね。浦和レッズなんかは、当時から過激な応援で有名だったじゃないですか。サポーターが生卵を投げつけてくるんだよね。生卵って殻がこびりついて、非常に厄介なんだ。そうしたら浦和のドライバーさんが「ヤマちゃん、こっちに停めろよ」と言って、安全なスペースに誘導してくれました。
それとか日本平で試合が押して、「こりゃあ新幹線に間に合わない!」って慌てていたら、清水観光のドライバーさんが早く到着できるルートを教えてくれて助かった、とかね。そんな話はいくらでもありますよ。
僕はイースタンからフリューゲルスに出向する時、部長に「選手バスの仕事を10年やったら帰ってきますから」って言ったんです。ゲルバスのドライバーになったのが47歳で、そこから10年後っていったら57歳でしょ。還暦まであと3年ってことだったら、まあ潮時だよね。
ゲルバスを卒業したら、またハイヤーのドライバーに戻ればいいかなって、漠然と考えていた。ワイドショーの事件現場に行くこともあったけど、役員をゴルフ場まで運んで、ずーっと待っているなんて仕事も多かったからね。
「あの日」までは、相変わらずフリューゲルスで楽しく仕事をしていましたよ。ドライバーとしてはもちろん、ホペイロの手伝いみたいなこともやっていました。
選手の皆さんを目的地まで運んだら仕事が終わり、じゃなくてロッカールームにも入れてもらって、アップ用のユニフォームを集めてワゴン車にぶっこんだりしていました。