「ゲルバス」と呼ばれた選手バス。単なる運転手以上の存在
1999年に消滅した横浜フリューゲルスについて、さまざまな「当事者」たちの言葉を集めて再現する当連載。当初は、人づてに次のインタビュイーを探しながら、月1回のペースでの掲載を目指していた。
ところが、前回の前田治のインタビューから実に3ヶ月が空いてしまい、当連載を楽しみにしていた皆さんには大変申し訳ないことをしてしまった。この場を借りてお詫びしたい。
端的に言えば、次のインタビュー取材がなかなか実施できなかったのだ。取材候補に考えていた人は何人かいたのだが(いずれも興味深い内容になるという確信もあった)、粘り強い交渉にもかかわらず実現には至らなかった。
取材する側としては「あれから20年が経ったのだから語れることもあるだろう」という思惑があったのだが、当時のことを思い出すことにためらいがあったり、立場的にまだ語れなかったりする人も一定数いることを思い知った次第だ。
そんな中、ようやくわれわれのオファーに快く応じてくれたのが、選手バスの専属ドライバーを務めていた山田慎吾である。
山田は47歳の時、当時所属していたイースタン観光から全日空スポーツクラブに出向する形で、専属ドライバーとなった。初仕事は94年3月5日のゼロックス・スーパーカップ。以来、99年1月1日の天皇杯決勝まで、山田はドライバーとして常にチームに帯同していた。
フリューゲルスのファンは、この選手バスを「ゲルバス」と呼び、ドライバーの山田と共に深い愛着を抱いていた。また当時の選手たちも、山田を単なる運転手以上の存在として接していたフシが見られる。
あれから間もなく20年。現在、千葉県成田市で静かに暮らす山田を尋ねると、古いカバンをおもむろに閻いて、ゲルバスのハンドルを握っていた日々のことを語り始めた。