時間をかけて作り上げてきた「可変システム」
ピッチで必死に戦っている選手たちも、一抹の寂しさを心の奥底に抱いていたかもしれない。サンフレッチェの象徴でもあった「可変システム」は、決して押しつけられたものではなかったからだ。
誕生に至ったターニングポイントは、FC東京戦でもリザーブに名前を連ねていた36歳の大ベテランで、ユースから昇格して実に19年目を迎えているボランチ森崎和幸の「閃き」だった。
当時は就任3年目を迎えていたミハイロ・ペトロヴィッチ監督(現浦和レッズ監督)のもと、オーソドックスな「3‐5‐2」を採用しながら、2008シーズンのJ2戦線で順調に勝ち点を積み重ねていた。
「そうしているうちに、攻撃の起点になっていたリベロのストヤノフに対して、相手のフォワードがマンマーク気味でつくようになった。そうした状況を打開するために僕が最終ラインに下がれば、ストヤノフへの厳しいマークがちょっとでも分散するだろうと思ったんです」
マイボール時にボランチの一人が最終ラインに下がり、3バックから4バックへと変わるひな形はこうして生まれる。もちろん、ペトロヴィッチ監督も選手たちの自主的な判断を尊重してくれた。
さらには指揮官自身もアイデアを出す。たとえば前線を佐藤寿人(名古屋グランパス)のワントップに変えて、その背後に2人の攻撃的MFを並べることで流動性を発揮させるようにほどこした。
シーズン中に試行錯誤を繰り返しながら、「3‐4‐2‐1」がマイボール時には「4‐1‐5」や「2‐3‐5」となる超攻撃的な布陣が誕生。J2を勝ち点100、総得点99の独走で制する原動力になった。
ペトロヴィッチ監督は2011シーズン限りで退任したが、同じ路線を継承し、特に守備の部分を強化・修正した森保監督のもとで、「可変システム」はJ1戦線をも席巻する威力を発揮するに至った。
「調子が悪い時期でも立ち戻ることができる場所、要は自分たちのサッカーというのがあれば、迷うことなくプレーができる。そこがぶれているチームは、やっぱり結果が出ていないので」