勝利のためなら暴力や侮辱も辞さない
しかしスベルディアとエストゥディアンテスのサッカーは、国外からはもちろん国内からも「アンチフットボール」と非難を浴びた。
相手を怪我させることも恐れないほど暴力的だったし、レフェリーの目をごまかしてファウルを重ね、戦意をくじくような侮辱を相手選手の耳元でささやき、露骨な時間稼ぎも平気だったからだ。
マンチェスター・ユナイテッドと対戦したときには、ピンを仕込んで相手選手を刺したとことをのちに(半分自慢げに)告白した選手もいた。アンチフットボールは単につまらないスタイルという以上に、暴力的で危険な行為を意味していた。
それでもアルゼンチンではアンチフットボールが容認されていたところがある、とジョナサン・ウィルソンはいう。
1958年ワールドカップ、スウェーデン大会での惨敗の記憶が、アルゼンチンに長い間重くのしかかっていたからだ。アルゼンチンはグループリーグで北アイルランドには勝ったものの、西ドイツとチェコソロバキアに負けてグループリーグを最下位で敗退した。特にチェコソロバキアには6-1で惨敗を喫し、試合が行われたヘルシンボリはアルゼンチンにとって魔の地となった。
体格と技術でまさる欧州の選手にどうすれば勝てるか? 個の力ではなくチーム全員で守備的に戦うこと、という答えは今も変わらないだろう。
だがサッカーが政治と強く結びついているアルゼンチンでは、代表チームの成績が政権への支持に大きな影響を及ぼす。代表チームと監督には政府からの圧力がかかるから、勝つためにあらゆる手段をとらねばならない。その結果がアンチフットボールだったのだ。