「上手ければもっといい環境でサッカーができる」
所属チームのない浪人を覚悟でゼルビアを離れた。そのときに出会い、海外で腕を磨いて将来は日本代表に入りたい夢を打ち明けた代理人から、モンテネグロでのトライアウトを勧められた。
「最初はモンテネグロがどこにあるのかも、サッカーやっているのもわかりませんでした。まったく知識がありませんでしたけど、サッカーをやらないことには始まらないので」
再び海を渡るときに抱いたのは、はい上がってやるという決意と、メジャーと呼ばれる国でプレーしていなくても結果を残し、A代表に抜擢される第一号になってやるという野望だった。
モンテネグロのFKルダル・プリェヴリャからステップアップを志し、オーストリアのチームのトライアウトを受けるも失敗した。お金がないからと帰路はバスを乗り継ぎ、約30時間をかけて戻ったこともある。
FKルダル・プリェヴリャでは2年間プレー。2年目は1部リーグ制覇に貢献して、ベストイレブンにも選出された。ポーランド1部のTSポドベスキジェ・ビェルスコ=ビャワに移るも、チームは2部へ降格する。
もっとも、加藤自身は奮闘し、そのプレーが評価されていま現在のベロエに移った。いまでは英語とスペイン語を話し、モンテネグロ語、ポーランド語、ブルガリア語も日常生活にはほとんど困らない。
「いままで続けてこられたのは、単純にサッカーが好きだった、ということだと思います。もっと上手い相手と戦いたいと思いますし、何よりも自分自身がもっともっと上手くなりたかった。たとえどんなに辛いことが起きても、もし自分がいい選手ならばそういう経験はしなくて済むわけじゃないですか。
上手ければもっといい環境でサッカーができるし、もっといいスパイクを履くこともできる。でも自分が下手だからこういう環境にいて、こういう待遇を受けているとずっと言い聞かせてきました。じゃあどうすればいいかとなったときに、自分が上手くなるしかないなと」