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Jリーグ 8年前

横浜F一筋の男に突き付けられたクラブ消滅。元代表・前田治が報道前夜に受けた電話【フリューゲルスの悲劇:20年目の真実】

シリーズ:フリューゲルスの悲劇:20年目の真実 text by 宇都宮徹壱 photo by Tetsuichi Utsunomiya, Getty Images

東海大在学中に日本代表入り。横浜Fの前身、全日空を選んだ理由

 そうこうしているうちに、日本代表のトレーニングにも呼んでもらえるようになったんです。監督は石井(義信)さん、そのあとが(横山)謙三さん。右も左もわからない新人でしたから、もうドキドキで(苦笑)。最初は自分らしいプレーができませんでしたね。

 それでも4年の終わりくらいから、代表メンバーに入れてもらえるようになって、ワールドカップ(90年イタリア大会)予選に出させてもらいました。得点も決めたんですけど、ちょうどその頃に恥骨結合炎をやってしまったんですよね。

 股関節のところが痛くて、朝起きるのも辛くって。代表では痛み止めを打ちながら、だましだましやっていたんですけど、満足できるプレーができませんでした。結局、代表でのキャリアはそこで終わりです。

(卒業後)全日空を選んだ理由ですか?「プロ契約でないと行きません」という僕の主張を受け入れてくれたからです。すでに木村和司さんが「スペシャルライセンス」として日産でプレーしていましたが(86年)、まだまだ社員選手が一般的でした。

 いちおう読売と日産以外の全チームからオファーをいただきましたが、プロ待遇での入団を認めてくれたのは2部の全日空だけでした。ただ、東海大でも2部からのスタートだったので、そこは悩まなかったですね。

 全日空に入団した年(89年)の監督は塩澤(敏彦)さんでしたが、僕のキャリアで大きな影響を与えてくれたのは、次の加茂(周)さん。あれはみんなで飯を食っていたときでしたかね。いきなり加茂さんから「ワシはお前を復活させるために、ここに来たんや」と言われたんですよ。あれは殺し文句でしたね(笑)。

 全日空に入ってからも、鎖骨を骨折したり靭帯を伸ばしたり、けっこうケガが続いたんです。「このまま終わっちゃうのかな」と思った時に、加茂さんからそう言われて「だったら、もう一度やってやろう」と思いました。

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