横浜Fは「すべて」だった。だが「99年元日・国立」に足を運ばず
「横浜フリューゲルスの前田」と言えば、貴方は誰をイメージするだろうか。最後のシーズン、選手会長としてチームをまとめ、全日空との交渉に当たった「男前田」こと前田浩二を思い浮かべるファンは少なくないだろう。一方で忘れてならないのが、前田治である。
東海大在学中に日本代表に選出され、国際Aマッチ14試合に出場して6ゴール。鳴り物入りで88年に全日空に「プロ」として入団し、Jリーグが開幕した93年には開幕4試合連続ゴールを挙げて一躍脚光を浴びた。
ちなみに「男」前田がフリューゲルスに加入したのは96年のこと。まさに入れ替わるようにして「オサム」前田は、この年に31歳で現役を終えている。
フリューゲルスとマリノスとの合併が報じられた98年10月29日、前田はフリューゲルスのジュニアユースコーチという立場であった。すでにスパイクを脱いで2年目であり、当然ながら「99年元日・国立」のピッチには立っていない。
そればかりか、現場に向かうことをあえてせず、自宅でTV観戦していたという。フリューゲルスが「すべて」だったと言い切る男にしては、いささか奇異に思える行動。その背景には、何があったのだろうか。
今回のインタビューが行われたのは、横浜市都筑区にあるハワイアンのお店。前田はサッカー解説やJFAの『こころのプロジェクト』の仕事をしながら、妻が主催するフラダンス教室の運営も手がけている。そして彼は現役引退後もこの地に留まり続け、後援会の人々との交流を大切しながら静かな暮らしを営んでいる。
プロフットボーラーという人種は、特定のクラブや土地に縛られず、自由に自身の人生を決定してゆく。しかし前田はプロになって以降、全日空とフリューゲルス、そして横浜という土地から離れることはなかった。
そして今はなきクラブの思い出の品々を大切に保管し、フリューゲルスOB会の世話役も進んで引き受ける。さながらフリューゲルスの墓守のような前田に、これまでずっと胸に秘めてきた想いについて、語ってもらった。