僕はフリューゲルスの「いちファン」
サッカーを辞めてから、東京に戻って次の生き方を模索しました。とりあえず求人雑誌を買い込んで、初めて履歴書というものを書きましたよ(笑)。面接にも行きましたけど、全部落ちました。やっぱり甘くないんだなって思いました。
最初はサッカー以外の仕事を探していたんですけど、その後クリニックの手伝いをしながら子供たちにサッカーを教えるようになって、仕事としての面白さに気付くようになりましたね。いろいろ紆余曲折ありましたけど、ようやくセカンドキャリアの方向性が定まって今に至っています。
僕にとってのフリューゲルスですか? 確かに、初めてプロとして入ったチームではあるんですけど、「いちファン」という感情も強かったように思います。だからこそ「強いフリューゲルスを見せたい」という言葉が出てきたのかもしれない。
今でも懐かしく思いますし、大好きなチームです。ただ、あの時チームメイトだった人たちとは、もうあまり連絡を取っていませんね。みんな、それぞれの職場で忙しいだろうし、(関係性が)変わってしまった人もいるし。もう、随分と時間が経ってしまったから、それは仕方がないことですよ。それでも今日、久しぶりに当時のことをお話できて、僕も嬉しかったです。
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「両校優勝」「サテライトリーグ」「自宅の留守電」──今の20代には、ちょっと説明が必要なフレーズが頻出する。桜井が語る物語は、それだけ昔の話である。
しかし一方で、当事者たちにとっての「フリューゲルス消滅までのカウントダウン」は、20年近くが経過した今でも忘れがたいリアルな記憶として脳裏に刻まれている。実際、桜井による証言も、当時の記録と照らし合わせると非常に正確なものであった。
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