天皇杯優勝なしに、フリューゲルスは「伝説」たり得たか
横浜の2つのクラブの合併が新聞報道で明らかになったのは、98年の10月29日。その後、フリューゲルスはリーグ戦4試合、そして3回戦から参戦した天皇杯5試合にすべて勝利するという、神がかりな偉業を達成している。負ければ終わりのトーナメント。しかもこの時のフリューゲルスにとって、終戦はすなわち「クラブ消滅」を意味した。
しかし、ここで彼らは驚異的な底力を発揮する。準々決勝でジュビロ磐田に2-1、準決勝で鹿島アントラーズに1-0で競り勝って99年の元日・国立での決勝に進出。清水エスパルスとのファイナルも2-1で勝利して、見事な有終の美を飾ることとなった。
歴史と伝統を誇る天皇杯で頂点を極め、そして栄光と歓喜の中で消滅する。誤解を恐れずに言えば、まさに日本人が好んで止まない「滅びの美学」を体現したことによって、横浜フリューゲルスは「伝説」となった。そして、毎年の天皇杯のたびに当時の映像が流されることで、フリューゲルスの伝説はリアルタイムで知らない世代にも伝えられることとなった。
だが、しかし、私は思うのである。もしも天皇杯優勝というドラマがなければ、果たしてフリューゲルスは「伝説」たり得たのであろうか、と。
話を目前の元Jリーガーに戻す。桜井はフリューゲルスの「伝説」に、プレーヤーとしては関与していない。彼はある時はベンチで、ある時はベンチ外から、チームメイトの戦いを見守り、鼓舞し続けた。残念ながら戦力的には貢献したと言い難い。
だが、それでも前述したとおり、彼はフリューゲルスが「伝説」となるために、決定的な役割を果たしている。その役割とは、どのようなものだったのか。当人の回想に、しばし耳を傾けることにしたい。
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