会長が選手と一緒に収まった写真を見ると強烈な不快感に襲われる
オセールがアンジェイ・シャルマッフを獲得する際、私は彼の母国ポーランドまで赴かなくてはならなかった。あれは1980年のこと。道には雪が積もり、駐車場はミラン、ユヴェントスなど欧州のビッグクラブのエージェントの車で一杯だったが、最終的に我々が争奪戦を制した。一体、どのようにして? ポーランド・スポーツ連盟の幹部たちと直接話をすることによって、である。
彼らに対しては、もし選手がオセールに来るのであれば、連盟をより良くするための道具を提供させてもらうと言った。幅跳びの測定器、最新のストップウォッチなどの提供……、そしてシャルマッフに大きな愛情を注いでいくことも約束した。それもまた、れっきとした取引なのである! あの頃はスーツケース一杯に札束を詰めなくても、素晴らしいことを成し遂げられた。
それとは反対に、失望を感じた出来事として今も思い出すのは、オセールの下部組織で育ったモハメド・シッソコが何も告げぬままバレンシアに移籍したことだ。代理人が一夜にして彼を連れ去ったわけだが、私はその移籍を、新聞を読んで知ったのである!
そのほかのことで頭に浮かぶのは、アフリカ人の選手たち。30歳と紹介された彼らは、実際にはもっと年齢が上で、我々は“付加価値税がかけられた選手”と称していた。それはボスマン・ルール上に存在する不正取引の一例となるが、このシステムはやはり倒錯したものである。
ただ、自分の見解を悪く解釈されることは望まない。フランスは地理的に存在するようになってから、常に移民者と共存してきた。ギリシア人、フェニキア人、ローマ人、ポルトガル人、スペイン人、イタリア人、マグレブ人、アフリカ人がやって来た国こそフランスであり、私から移民を撥ね付けたり、外国人を敵視したりすることはない。人間は移ろいゆくもので、選手であってもそれは同じ。しかし、たとえ移ろうものであろうと、感覚的に理解しかねる道程があるのだ。
会長が選手と一緒に収まった写真を目にするときには、強烈な不快感に襲われる。そこから透けて見えるのは、会長という人種特有の優越感であり、彼らは選手にユニフォームを与えて、肩を組んで、無理やり笑わせている……。自分が選手の入団発表に参加したことはなかった。
「プレーをして、互いを理解し合い、その後に好きなだけ写真を撮ろうじゃないか」
それが私の考えであったし、だからこそああいった写真を目にするときには、会長が狩った獲物と記念撮影をしているように感じてしまう。
いやったらしいことだとは、本当に思えないのかね?
(文:ハビエル・プリエト・サントス【フランス】/翻訳:江間慎一郎)
【了】