家族も説得し手元で成長させたジブリル・シセ
ジブリル・シセであれば彼の母親、兄弟と1ヶ月に一度は食事をした。彼らには、我々と一緒にいることこそがシセにとって最善であると説明し、3年後にはリヴァプールに移籍できるという保証だってした。そうすることで、我々は時間と落ち着きを手にできたのである。
またシセの家族と同じように、ジェラール・ウリエ(当時のリヴァプール指揮官)も素早く移籍を成立させようと試みたが、初めてオセールを訪れた彼に対して、私からはこう訴えたのだった。
「シセが現時点で移籍しても、プレーできず行き詰まってしまうだろう。ジブリルはまだ成熟しておらず、経験と出場時間を必要としているんだ。我々はそれらを与えることができる。準備が整えば、彼は君たちのものだ」
そう話したにもかかわらず、ジェラールはシセの獲得に執着し続け、そのため彼をシャブリ(ブルゴーニュ地方の北部にある白ワインの名産地)の数あるワイナリーの一つに案内しなければならなかった。もちろん、そこですべては丸く収まったわけだが……。
その後に成熟を果たしたシセは2年間で50ゴールを記録し、“完成した”選手としてリヴァプールに移籍を果たした。自賛するわけではないが、私の仕事は多くの選手たちを見事に磨き上げてきた。そしてフットボールでは、最高の選手であればあるほど、より高額となるのである。
90年代の半ばにもなると、選手の扱い方すら変わってしまった。とはいえ、私は感情を全面に押し出す監督として、彼らの全力を引き出そうと奮闘し続けた。まったく、自分は筋金入りの温情主義者である。そうした扱いは、契約内容のことなど話すべきでないという気付きがあったためだが、報われない苦労でもあった。金にたぶらかされる選手たちは、明日にでも手の平を返して退団する可能性があり、自分の努力など矛盾したものにしかならなかったのである。
それでも私は選手たちと同じ時間を過ごし、笑い合い、クラブから去ってしまうときには涙を流した。彼らに愛情を感じていたし、金庫に残していく金なんてどうでもよかった。自分の戦略は彼らに落ち着きを与えること、オセールで良い選手になれば他クラブへの扉が開かれると確約することを基にしていた。だからこそ移籍するまでは、力を尽くしてもらわねばならなかった。