ボスマン判決以前は、代表チームのあり方も今と違った
1938年にフランスのコルマールで生まれたギー・ルー。彼は1961年からオセールの監督としてベンチに座り続け、2005年にその腰を上げた。つまりマルク・ボスマンがこの世に生を受け、選手となり、フットボールをひっくり返す判決を手にし、最終的に困窮するすべての過程が、その期間内に収められるのである。
リーグ・アンの歴史において最も多くの試合で指揮を執ったルーだが、彼にとってボスマン・ルールはフットボールのいくつかの価値と掟を破壊するものだった。選手を我が子のように扱ってきた彼だからこそ、荒涼とした新たな移籍市場との付き合いは、簡単なものではなかったのだ。
1996年夏、ルーはブルゴーニュのクラブとともに初にして最後となるリーグ優勝を経験した。「選手たちが商品となった」のは、その直後のことである。
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ボスマン・ルールが適用される前、フランス1部リーグで毎週にわたってプレーしていた220人の選手の内、外国人の数は60人だった。イングランド、イタリア、スペインも同じ状況で、ピッチ上の4人に一人だけが他国の選手だったのである。
そのために何らかの形で秩序というものは保たれていた。しかし判決が効力を持った後には、まるで現実のことではないかのように、才能あるフランス人選手たちが流出していったのだった。
それまでの長い間、欧州のビッグクラブに在籍していたフランス人選手はユヴェントスのミシェル・プラティニだけであり、そのほかのフランスのスター、すべての代表選手がフランス1部リーグのクラブで凌ぎを削っていた。
ボスマン判決の前には、欧州のクラブがたとえフランスの才能を欲しようとも、外国人を3人までしかピッチに並べることができず、そこには安定が存在していたのである。また、そのような状況は代表チームにも良い影響を与えていた。
選手たち全員が“我が家”でプレーしていたことにより、兵站学のような程度から、すべての事がより簡単に運んだ。当時の代表監督は各シーズンの始めに、代表チームが練習に取り組む日程をクラブと直接交渉することができた。代表チームは今よりも大切に考えられていたが、それは選手たちが地理的に、ごく限られた範囲の中でプレーしていたからにほかならなかった。
そして、私のオセールでの経験から言わせてもらえば、ボスマン判決前の選手たちは、とても自然な形で成熟を遂げることができていた。才能ある若い選手たちがより大きなクラブへと移り、飛躍するまでには3~4年の期間があり、移籍前の彼らに対しては明確な指導を施せたのである。そのすべてが道理にかなったもので、選手たちが移籍金として置いていった金は、ソショー、ナント、オセール、ランスの育成センターの競争力を維持させることに役立っていた。
けれども、そのような安定は崩れ去ってしまう。判決後、強大なクラブが手早く力を増すため、優れた個性を持つ選手を捕えるようになるまでそう時間はかからず、育成に重点を置くクラブは彼らの視線にさられることになった。