同業者が呼応することはなかった
デュポンはフットボールの選手移籍における違法性を確かなものとしていたが、UEFAとFIFAが折れることはなかった。「彼らには9回にわたって和解を申し込んだが……、何もなかった」。そして1995年12月15日、ルクセンブルクの裁判所は、ボスマン側勝訴の判決を下した。
「俺がスパルタカスだ!」は、(もちろん牡蠣と蝸牛の話とともに)スタンリー・キューブリックの映画の中で最も有名なセリフだろう。ローマ人に捕らえられて奴隷となった者たちは、解放者というアイデンティティーを胸に秘め、そのアイデンティティーを受け入ること、そのための死を覚悟することで、一人また一人と犠牲となっていった。
翻ってボスマンはというと、同業者が呼応することなどなかった。当時の選手たちは権利が侵害されていたとも解放者になったとも感じておらず、彼らにとってのボスマンはただの悪人にしかなりえなかったのである。かてて加えて、それはフットボールの権力者たちにとっても同じことだった。
そうした精神分裂病のような状況下で、ボスマンはスポーツ選手、次に人間として烙印を押され、終いには『ザ・サン』などのメディアから凋落に関連したありとあらゆる分詞を活用された。「引退している」、「見捨てられている」、「隔絶している」、「破滅している」、「アルコール中毒になっている」、挙げ句の果てには「罪によって地獄に落ちている」と。
だが最初の混乱、また状況を逆戻りさせるという実りなき企てを経た後、クラブが判決を利用し始め、代理人も動き出した。アヤックスのベルカンプとクライファートがそれぞれアーセナル、ミランへと移り、コリモアがノッティンガム・フォレストからリヴァプール、マクマナマンがリヴァプールからレアル・マドリーと、名高きボスマン移籍がついに生じていったのである。
これにより一方では大金が動くようになり、しかしもう一方ではチームに大量の選手が流入したことで、ファンと選手たちのアイデンティティーを共有していく過程が非自然化することになった。
「ボスマン判決は、競技規則以外のすべてを変えてしまった」
そう語るのは、ボスマン判決による変化を徹底的に活用したデポルティボの元会長、アウグスト・セサル・レンドイロである。
「突として外国人選手であふれかえるチームをつくれるようになったわけだ。デポルはスペイン人が1~2人しかプレーしていなかったため、UN(国際連合)なんて呼ばれていたよ」