法的な事例が先んじるボスマンの人生
ジャン=マルク・ボスマンには、隣人がいた。それは些細なことのようにも思えるけれど、とんでもない。大きな変化が生じる上では、登場人物たちや彼らの理想はもとより、状況というものを必然的に味方としなければならないのだ。
どこにでもあるようなチームに所属する無名の一選手が、フットボールに変革をもたらした。その事実は、重要な出来事の生じる場所が、檜舞台だけに義務付けられたわけではないという確証であろう。大いなる夢物語の数々は、おそらくながら世俗的かつ私的な野心が、状況というものによって具現化されるに違いないのである。
アルフレッド・ヒッチコックの作品では、ユーモアに富むサスペンスの筋立てにおいて、急流に飲み込まれる一般市民が登場する。そしてこの記事で描かれるジェームス・ステュアートは、黄昏のキャリアを過ごした一選手である。無名で、ひょっとすれば凡庸だったかもしれない選手の姓こそが、ボスマン。このベルギー人の青年の目は顔面の中で沈んでいて、偽りの、おとなしい外観をもたらしている。彼の誇りの大きさや頑ななまでの首尾一貫さなど、そこからは窺い知れない。
そんな彼が駆られた衝動、それはもちろん、彼一個人が受けた不当な扱いへの賠償に基づくものだった。けれども、その人目にもつかぬようなはためきが、乱暴なるパラダイムチェンジにまで成長を遂げてしまったのである。ボスマンがそうしたのは自分自身のためだった。そうしたのは己の正義感のためだった。そうしたのはフットボールをプレーし続けるという単純な問題のためだった。そうしたのは、とどのつまり、隣人がいたためであった。
ボスマンのバイオグラフィーは、ウィキペディアでさえ出身地を不要とするほどに焦点がずれたもので、今世の中でも実に奇怪な事柄として存在している。この「ありそうもない革命家」について記された、数え切れぬジャーナリスティックなレポートにおいても、彼がどの町で生まれたのかなど明示されていない。彼が生を受けた場所は、ベルギーという国。そのことに加えて、1964年10月30日という生年月日のみが記される。
この出身地の失念には、一人の男の明確なプロフィールをないがしろにしても構わず、もて囃すべき主役は一つの出来事であるという共謀が見え隠れする。つまりボスマンのバイオグラフィーは彼の人生などではなく、法的な事例そのものなのである。
もちろん、そこには選手としてのキャリアについてもほとんど含まれておらず、洗練された中盤の選手、ベルギーの育成年代の代表でプレー、1983年にスタンダール・リエージュのトップチームに昇格、といったごくわずかな概略しかない。そのために我々は、彼がそのリエージュで生まれたと仮定するほかないのだ。