最初から名門だったのではなく着実に歩を進めてきた
そして、翌1978年で2位に入ると、富士通サッカー部(現川崎フロンターレ)との入れ替え戦を連勝で制し、1979年度からの日本リーグ1部昇格を決める。祝勝会に招待された岡野さんは、壇上でこんなスピーチをしたと苦笑いしながら明かしてくれたことがある。
「いまの日本の自動車会社で、スポーツカーを作っているのは日産しかありません。だから、スピードを出すのは得意でしょう。そのおかげもあって、日本リーグ1部へ昇格しました。ついては2部に速く落ちないように頑張ってくださいと言ったら、2年目で落ちちゃったんだよね」
もっとも、このころから日産自動車は、サッカー部強化にさらに本腰を入れる。金田喜稔(中央)、木村和司(明治)、水沼貴史(法政)をはじめとする大卒の日本代表クラスが続々と入社。1986年には木村がスペシャル・ライセンス・プレーヤーとなり、国産の第1号プロ選手となった。
1987年にはブラジル代表でキャプテンを務めたDFジョゼ・オスカー・ベルナルディを獲得。超大物の加入は守備面だけでなく日本人選手のプロ意識をも向上させて、1988年度には加茂のもとで日本リーグ、天皇杯、JSLカップの国内三冠を史上初めて独占した。岡野さんはこうもつけ加えている。
「いま現在の横浜F・マリノスを見れば、前身の日産自動車時代からすごいチームのように感じられるけれども、実は違うんですよ。クラマーの提案で日本リーグが創設されて、その後に低迷期はあったけれども、そのなかでチームの基盤が少しずつできあがってきた。そこへもってまず指導者のプロ化が実現して、選手のプロ化という流れを経てJリーグにつながったわけです」
東洋工業蹴球部の4連覇で幕を開けた日本リーグは、やがて古河電工、日立製作所、三菱重工の「丸の内御三家」が中心をなす時代に移る。アマチュア全盛の勢力図のなかへ、1980年代に入って読売クラブ(現東京ヴェルディ)とともに敢然と割り込み、悲願のプロ時代到来への先導役を果たした日産自動車が産声をあげた背景には、各方面に幅広い人脈をもっていた岡野さんの粋なアシストがあった。(文中一部敬称略)
(取材・文:藤江直人)
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