日本サッカー界初となるプロ監督の誕生
翌1973年度には同1部に昇格して即優勝するなど、順調な滑り出しを見せたものつかの間、関東社会人大会準々決勝で電電関東(現大宮アルディージャ)に苦杯をなめる。関東社会人リーグへの昇格を断たれた直後、くだんの人事部長から再び岡野さんのもとへ電話が入った。
「今度は『いいコーチを探したい』と言われたんだよね」
日産自動車の初代監督には県立浦和高校で全国優勝を経験し、東京大学サッカー部では
キャプテンを務めた岡野さんの後輩、安達二郎が就いていた。しかし、社業が忙しかったこともあって、日産自動車側は新たな監督を探さざるをえない状況に直面していた。
「安達はサッカーとは関係なしに日産自動車に入社していたからね。それで相談されたんだけど、指導者に関しては僕よりも平木隆三のほうがよく知っていた。なので『平木という人間を紹介しますから、会ってください』と言ったんだよ」
1964年の東京五輪でキャプテンを務め、その後はメキシコ五輪をはじめとする代表チームでコーチを歴任。Jリーグ発足後は名古屋グランパスエイトの初代監督を務める平木は、ヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)でコーチを務め、日本リーグで初優勝した1972年度をもって退社していた加茂周を推薦する。
テストドライバーが1年契約の嘱託として仕事をしていた実績もあって、日産自動車には「プロ」という概念に対して寛容な土壌があった。後に日本代表監督を務める加茂は、1974年から日本サッカー界初のプロ監督として、日産自動車を強化していくことになる。