まったく心当たりがなかった突然の電話
JR上野駅界隈を窓越しに一望できるビルの最上階。まだ40歳になる前の秘話を、代表取締役を務めていた明治6年創業の和菓子の老舗『岡埜栄泉』の事務所で、岡野俊一郎さんは懐かしそうに振り返ったことがある。
大会得点王を獲得した不世出の名ストライカー・釜本邦茂を擁した日本代表が、オリンピックが開催されたメキシコシティで快進撃を演じ、3位決定戦で開催国を2‐0で撃破したのが1968年10月24日。いま現在でも唯一となるメダル獲得を契機に、日本サッカー界にブームが訪れた。
コーチとして長沼健監督を支え、通訳としても日本サッカー界の父、デットマール・クラマーさんと選手たちの橋渡し役を務めた岡野俊一郎さんのもとに、まったく心当たりのない男性から突然の電話がかかってきたのもブームの真っただ中だった。
聞けば「サッカーのことでちょっとお話を」と、築地の料亭でもてなしたいという。もちろん岡野さんも「失礼ですけれども、どなたですか」と聞き返す。声の主は日産自動車の人事部長と部下の課長で、岡野さんの母校、東京大学の先輩だった。
「築地なんか呼ばれたことがなかったからね。だから喜んで行っちゃったよ」
果たして、サッカーの話とは日産自動車がサッカー部を創設して、ゆくゆくは日本リーグに参戦したいというものだった。すでに全国レベルで活躍していた野球部に加えて、従業員が応援したくなるようなスポーツを、という理由で銅メダル獲得に沸いていたサッカーに白羽の矢が立てられたわけだ。