結局、アマチュアとしてプレーを終えることに
――この20年間、選手から謝意を示されたことはあるのでしょうか?
B 何人かいたが、ほんの一握りだ。あのとき、賠償を求める代わりに選手移籍の際に何パーセントかをもらえるよう弁護士たちと話し合うべきだった。そうしていたらスタンダール、アンデルレヒト、ブルッヘを買収して……、リエージュの都市半分を私のものとしてやったのに!
――あなたとともに裁判に出廷した弁護士たちは、その後どうなりましたか?
B 彼らにとって、あの裁判は大きな勝利だった。一人は32ものオフィスを抱えるようになり、ちょっとした“いかさま師”のもう一人も金持ちとなった。一方、私にとっては実りなどない悪しきものとなり、その後の地獄への落ち様は悲劇的だったと言える。1995年には何か報いがあると考えたものだが、フットボール界は私への扉を閉ざしてしまった。
――裁判を終えたとき、あなたは31歳とキャリアの総括を始める時期に差し掛かっていました。それなのに、一体何が起きたのでしょうか?
B 私が目にしたものははっきりしていて、キャリアはそこで終わりを迎えてしまった。ベルギーの3部リーグではプレーできたが、そのクラブの会長からは無料で獲れたから受け入れたとはっきり言われたよ。
結局、私はアマチュアとしてプレーを終えることになってしまった。しかし裁判が開始した26歳のときから、キャリアの終焉は忍び寄っていたんだ。裁判中、FIFProとフランスの労働組合はサン=カンタンとの契約を取り計らってくれたが、そこでは1年で関係が壊れてフリーの身となった。
だからストラスブールなど、ほかのフランス2部リーグのクラブを当てにしたが、その後も裁判は続いていった……。各クラブは「良い選手ではあるが、我々にとって5~6番目の選択肢」などと言っていたが、ボイコットはすでに始まっていたというわけだ。
――その時期は、まだプロレベルで活躍できるステータスがあったはずです。それでも、多くのクラブがあなたの獲得に否定的だったと?
B ベルギーでもメヘレンやシャルルロワなどに入団することを試みたが、どこからもチームはすでにでき完成していると言われた。
――そういった経緯により、インド洋上にあるレユニオンの島でプレーをすることになったのですね?
B FIFPro、フランスの労働組合の手をもう一度借りてね。1万2000キロ離れているあの場所では、誰もが懸命に汗を流して働いていた。