“グローバライズ”されたプレミアリーグ。イングリッシュ・スピリットはどこへ?
どうしてこんなことになってしまったのか。歴史的伏線などについてはここでは省略することにして、その答えを紐解くのは逡巡することはないはず。すなわち、この10年で劇的に増殖の一途をたどってきた外国人監督の数にある。そして言うまでもなく、そのほとんどが「目先の成功のため」に白羽の矢が立った特別な“請負人”たちだ。
彼らには時間と余裕がない。ために、実績のある即戦力でチームを固め、また強化する必要に迫られる。彼らのリソースはといえば、現チームの現有戦力のほかは、それぞれがそれまで培ってきた経験と見識のネットワークに出没するプレーヤーたち。当然ながら、オール・フォリナー(すべて外国出身)、ノン・イングリッシュだ。
ここで目ざとい読者なら気がつくはずの重要なポイントがある。インヴィンシブル・アーセナルのレギュラーイレヴンのうち、国産はソル・キャンベルとアシュリー・コールの二人のみ。方や、ほぼ同時期にスパーズから電撃移籍し、もう一人は根っからのガナーズファンではあっても、まだファーストチームに上がって間もない若者にすぎなかった。
控えに目を移しても、ここでもマーティン・キーオンとレイ・パーラーの2名だけ。さて、このチームのどこが、例えば現在のチェルシーやマン・シティーと違うと言えるのか?
それこそがまさに“年月”のマジックなのだ。よーく目を凝らしてみて欲しい。キャンベルやパトリック・ヴィエラが来るまでバリバリのレギュラーだったキーオンやパーラーのような古参のベテランイングリッシュが、果たしてスタンフォード・ブリッジやエティハドのベンチやドレッシングルームにいる図など思い描けるだろうか。
そう、もはや現代の“グローバライズ”されたプレミアには、外国人のトッププレーヤーに対して、振る舞い方や考え方の点でお手本を示したり、意見しりする“上役”が“現場”から去ってしまったクラブばかりになりつつあるのが実状であり、それはもはや事実上(レギュラーにしろ、控えにしろ)イングランド色など無いに等しいということなのだ。