自問自答を繰り返し、移籍を繰り返す
恩師から但し書きをつけられ、先輩選手からは過去形で語られていた点が、プロになった家長が抱いた苦悩が象徴されている。若いゆえに好不調の波が激しく、選手層が厚いガンバではなかなかプレー機会を得られなかった。
2008シーズンから大分トリニータ、2010シーズンにはセレッソ大阪へ期限付き移籍。ピッチ上における時間を増やしながら、自問自答を繰り返していた。特に2010年6月には岡田武史監督に率いられる日本代表が、ワールドカップ南アフリカ大会で決勝トーナメントに進出。下馬評を覆す快進撃で、日本中を熱狂させていた。
その中心を担った本田圭佑(当時CSKAモスクワ)は同じ1986年6月13日生まれで、ガンバのジュニアユースの同期生でもあった。家長がユースへの昇格を果たした一方で本田は逃し、捲土重来を期して石川県の星稜高校へ進学。名古屋グランパス、VVVフェンロー(オランダ)をへて、日本代表で絶対的なポジションをつかみ取っていた。
南アフリカ大会の余韻が色濃く残っていた2010年の夏に、本田に対する思いも含めて、家長の心境を聞いたことがある。選手ならば誰でも憧れるワールドカップを見すえながら、こんな言葉が返ってきた。
「自分のストロングポイントを磨いていかないと、ワールドカップは見えてこない。これだ、という武器がないと、ああいう舞台では活躍できないと思っているので。自分の武器ですか? 模索中です。とにかく、いまは力をつけていきたい」
リーガエスパニョーラのマジョルカへ完全移籍を果たし、ガンバと決別したのは2010年12月。韓国Kリーグの蔚山現代、古巣ガンバへ期限付き移籍を繰り返し、再びマジョルカでプレーした後の2014年1月に、完全移籍でアルディージャに加わった。
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