モノ言う「サポーター」たち
欧州では公認のサポーターズ・グループを有しているクラブもあり、特に英国では特定のサポーターズ・グループに入っている人たちをサポーターと呼ぶらしい、ということが訳しているうちに次第にわかってきた。
公認のサポーターズ・グループはクラブ経営やスタジアム運営で何か問題があると、クラブ側と話し合いの場を持ち、クラブを盛りたてるために運営にも協力する。
差別的表現のチャントが歌われたり、人種差別的な弾幕が出されたりといった人道的に許されない行為については、たとえ「ファン」であったとしても非難し、公認サポーターズ・グループが公開で謝罪を表明することもある。
チームを応援するためにスタジアムにやってくる「ファン」であっても、そういった人道に反する行為をする人たちは「サポーター」ではない、というのが彼らの言い分である。
だが一方で、クラブとサポーターズ・グループが対立することもしばしばあり、両者はいつも持ちつ持たれつというわけではない。
要するに、愛情やカネだけでなく口も出すのがサポーター、試合を楽しむためにスタジアムに足を運ぶのがファン、ということか。
ひるがえって日本ではどうだろう? サポーターはサッカー独自の「文化」の一側面である。それならばサッカー文化が日本で歴史を刻んでいくためには、サポーターのあるべき姿を追求することも重要ではないか。
もちろんファン層の拡大も重要であるが、心からクラブを愛し、「クラブのために生きる」サポーターを獲得することが、これからの日本のサッカー文化にはたいせつなポイントになるはずだ。「コアサポ」を敬遠したり、「にわか(ファン)」だと軽視したり、とお互いを格付けするには、まだ時期尚早ではないか。
(文:実川元子)
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