「楽しくPKを蹴ることができました」(小川)
何よりも先蹴りの日本、後蹴りのサウジアラビアともに全員が成功させてきたなかで、小川の直前になって相手の4番手がゴール左上に大きくPKを外していた。
つまり、自らがPKを成功させれば日本の優勝が決まる。あの中田英寿でさえも、小野伸二や高原直泰を擁した「黄金世代」でさえも手の届かなかったアジア王者の座を手中に収めることができる。ヒーローになれると考えたとき、気がつけば小川は笑顔を浮かべながらボールへ歩み寄っていた。
「目の前で相手の4人目が外して、自分が決めれば勝つ。そういうシナリオというか、自分にそういう役割が回ってくるのがありがたかったというか。そういう場面に巡り合わせてもらったことが、本当に楽しくてしょうがなく感じられたのが表情に出ていたのかなと。チームの雰囲気もすごく明るくて、みんな笑顔でPK戦を乗り越えたなかで、自分も楽しくPKを蹴ることができました」
最初から決めていたというゴール右隅に、迷うことなく強烈な弾道を突き刺す。ガッツポーズとともに雄叫びをあげながら、小川は延長戦にもつれ込んだ決勝を含めた5試合、計480分間を無失点に封じた守護神・小島亨介(早稲田大学2年)のもとへ駆け寄っていった。
エースストライカーの象徴となる背番号「9」はそのままに、ユニフォームを小川は桐光学園のそれから左胸に日の丸が刻まれた日本代表のそれに変えて、バーレーンの地へ向かった。
もっとも、堅守を支えた一学年上のDF中山雄太(柏レイソル)や大会MVPを獲得した一学年下のMF堂安律(ガンバ大阪)と比べて、小川はある意味で「ハンデ」を背負っていた。
それは、Jの舞台における出場機会となる。レイソルでも不動のレギュラーの座を射止めた中山は25試合、計2195分にわたってプレー。堂安はJ1こそ3試合・25分間の出場ながら、ガンバが今シーズンからU‐23チームを参戦させているJ3で19試合、計1697分間に出場して、得点ランキングで5位タイとなる9ゴールをあげていた。
翻って、元日本代表にしてJリーグ得点王にも輝いた前田遼一(現FC東京)の象徴だった「18」番を託された自らは、J1では一度もピッチに立てていない。決勝トーナメントからYBCルヴァンカップと改められたヤマザキナビスコカップのグループリーグで、ともに途中出場で2試合、計47分間プレーしただけだった。