「海外組」の増加がもたらした弊害
2002年ワールドカップのとき、「海外組」は4人しかいない。中田英寿、小野伸二、川口能活、稲本潤一だけだった。ところが、その後は中村俊輔、中田浩二、柳沢敦、大黒将志、鈴木隆行、藤田俊哉、高原直泰と急増していく。もともと力のある選手だから外国のクラブへ移籍しているわけで、ジーコ監督も彼らを招集する。
しかし、すべての強化試合に招集するのは不可能で、Jリーグの選手を中心に試合をすることも多かった。「海外組」「国内組」という言葉が頻繁に使われるようになったのはこの時期である。
海外組の増加は2つの弊害をもたらした。まず、固定メンバーで連係を深めるという方針が困難になった。国内組を中心に強化試合をやった後、海外組が合流して公式戦という流れの中では細部の積み上げが進まない。国内組で詰めた細部や連係が、海外組の合流でやり直しになってしまう。
積んでは崩すの繰り返しで、ディテールの詰めもコンビネーションも深まらなかった。はからずも選手層の拡大という代表チームに必要なチーム作りにはつながったかもしれないが、そもそも時間のない代表強化において2つのチームを並行させるのは無駄である。
より決定的だったのは海外組の状態だ。所属クラブでコンスタントにプレーしている選手が少なかった。中田英寿でさえボルトンでベンチに座っていた。またこれは現在でも変わらないが、ヨーロッパから日本への移動は10時間ぐらいかかり、時差も7~8時間、さらに東回り。これは移動を余儀なくされる各国代表選手の中でも最も過酷といえる。
海外組はその能力ゆえに序列の上位にいたわけだが、実際にチームに合流してみると実力を発揮できないこともあった。本当の実力主義ではなくなっていたわけだ。その時点で序列が競争力を低下させる元凶になるのは当然の帰結である。