最初に苦しんだ分、我慢が利いた
――そもそも、山本選手の獲得を磐田がよくぞ決断してくれましたね。その後も辛抱強く回復を待ってくれて。
「感謝しています。クラブからしたら、病気持ちの選手を獲るというのは相当なリスク。試合や練習で、最悪のことが起こった場合、責任問題に発展するでしょうし。当時、早稲田の監督だったエノキさん(大榎克己氏。元清水エスパルス監督)が、ジュビロの強化部にいろいろと働きかけてくださったと聞いています。
僕自身、さあプロの世界に飛び込むぞという段になって病気が見つかり、とても不安だったんです。そうやってたくさんの方々にサポートしていただけたのはありがたかった」
――「いや、そういう選手、うちきついっすわ」と磐田の強化部が言っていたら。
「どこもなかったんじゃないですか」
――仮契約の時期だから、大学4年の夏を過ぎたあたり?
「12月でした」
――いまさら就活も間に合わない。
「サッカー以外、何も考えていなかったので、まさにお先真っ暗でした」
――そんな大変な出来事にぶつかれば、否応なく内面は変化しそうです。
「そうですね。病気になったときは、2、3週間まったくボールを蹴れず、この先サッカーができるかどうか不透明な時期もありました。月並みですが、家族や友人など周囲に対する感謝の気持ちは強くなりました。サッカーができるだけで、こんなにうれしい気持ちになるんだなと新鮮な気分も味わって」
――考えようによっては、プロに入って最初につまづいたことが幸いした面も?
「いまにして思えば、そこで苦しい思いして、プレーできるありがたみを知ったから、我慢が利いたのはあったでしょうね。もし順風満帆に歩んでいたら、なんだよと不満を溜め込んで腐っていたかもしれない」
――山本選手はそんなふうに自分を見失うようには見えませんが。
「僕なりに早くレギュラーに定着し、結果を出したい気持ち、焦燥感はあったんです。その一方、いろいろな先輩後輩を観察して、こういう選手がピッチで成果を挙げられるのか、長く続けられるのか、と参考にしていました。なかなか活躍できないもどかしさ、悔しさを覚えつつも、ここであきらめたら自分のキャリアは終わる、目の前のことにしっかり取り組もう、と」
(取材・文:海江田哲朗)