東側共産圏がオリンピック・サッカーを席巻
そもそもスポーツ大会の参加規程にアマチュアという言葉が初めて登場したときから、そこには労働者階級排除の意図があった。1839年ロンドンで行なわれたボート競技「ヘンリー・レガッタ」は、ボート漕ぎを職業としている労働者の参加を拒み、オックスフォードやケンブリッジといった超名門エリート校の学生だけが参加できる大会にするのが目的で、参加資格にアマチュア規定を盛り込んだ。(「スポーツとは何か」玉木正之著 講談社現代新書)
第二次世界大戦後、参加国が増加し、サッカーだけでなくスポーツの国際大会としてのワールドカップが権威を高めていくのに対し、欧州の西側諸国にとってオリンピックのサッカー競技の価値は低下していく。
一方でオリンピックでの強豪国となったのが、ソ連をはじめとする東側共産圏の国である。共産圏では建前としてサッカー選手は国家公務員であるからアマチュア条項には引っかからない。
国からお金をもらって競技に専念する「ステート・アマ」と呼ばれるスポーツ選手は、スポーツの価値や社会的位置づけが大きく変容した時代に、旧態依然としたアマチュアリズムの思想を持ち込んだことで生じた矛盾の産物である。共産圏だけではない。日本でも企業の社員として給料を得ながらスポーツ競技に打ち込む「企業アマ」の形態がスポーツ界では常態化していた。
1952年ヘルシンキ大会から1980年モスクワ大会まで、男子サッカーで金メダルを獲得したのは、ハンガリー3回、ソ連、ユーゴスラビア、東ドイツ、チェコ各1回と欧州東側の国ばかりだ。オリンピックでそこまで東側諸国が活躍できた理由は簡単だ。
アマチュア条項に阻まれてプロにはなれない実力の選手しか送り込めなかった西側に対して、東側諸国が実質プロであるステート・アマの選手でチームが組めたからだ。ちなみにプロサッカーリーグがまだ発足していなかった日本が、1968年メキシコ大会で銅メダルを獲得できたのも、「企業アマ」の選手でチームが組めたから、と言える。
結果論であるが、この時期に西側諸国は、まだプロとして試合に出場したことがない若手選手をオリンピック代表に送り込んで強化をはかることができた。現在、欧州ではオリンピック予選がなく、U21欧州選手権の上位チームがオリンピック出場権を得ているが、もとをたどればアマチュア条項に行き着く。