時には木に登り、固定電話を借りて実況した
そんな彼は日本とも深い縁で繋がっている。2005年、岐阜で開催された世界ボート選手権大会の実況担当として20日間滞在しているのだ。「あれはもう本当に奇跡と言う以外にないよ」という「日本人の親切、誠実さ、その大会を運営する人々の感動的なまでに真摯な仕事振りに心奪われた」彼は、同時に、大会の表彰式でメダルを運ぶ女性の和服姿に魅了され、その1人の女性が身に付けていたものと同じ着物を買って奥さんへプレゼントしたという。
42年前、協会の敷く規制によりスタジアムに入れない一ローカル局のアナウンサーだった彼は、ローマのスタジアムを見下ろすことができるモンテ・マリオの丘から実況を行った。ジェノヴァでは木に登り、別の街ではスタジアムに近いアパートのベランダと固定電話を借りて実況したこともあった。
ファンと緑の芝とサッカーをこよなく愛した彼は、「言葉で試合を観せる」ために、目で試合を観ることができない盲目のサッカーファンを思いながら語り続けた。欠かした試合はわずかに1つ。それは件の「リボルノ対トラーパニ」、彼が脳梗塞に倒れた日の試合のみである。
「その手の物語ならどこにだってあるよ」──と言われてしまえば確かにその通りなのだろうが、それでもやはり、2014年10月12日の日曜日の午後、ラジオから流れたウーゴ・ルッソの声が、この国のサッカー史と人々の記憶に刻まれた事実、それが持つ意味は決して小さくはないのだと思う。
そしてこの週末も、午後3時にはオープニング曲(ハーブ・アルパートの『蜜の味(A Taste of Honey)』)が流れ、それに続いてウーゴの後輩たちがサッカーを語り伝えている。
(取材・文:宮崎隆司)
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