今こそ問うべきOA問題
リオ五輪サッカー男子代表は、グループステージ敗退に終わった。試合内容含め、分析・検証は必須であるのはもちろんのだが、それよりも重要な問題がある。それはオーバーエージ(OA)の意義だ。
今大会で日本は、興梠慎三、塩谷司、藤春廣輝という3人をOA枠で招集した。FWの興梠は及第点の内容だったものの、DFの塩谷と藤春はミスが多く、批判に晒された。彼らを呼ぶべきではなかった、あるいは別の選手にすべきだったなどと短絡的なことを言うつもりはない。
もちろんDFの2人はパフォーマンスが悪かった。だが、それは当該試合の責任においてのみ問われるべき問題であり、それをもって招集に疑問符をつけるのは単なる結果論に過ぎず、あまりにナンセンスだ。
塩谷と藤春はJリーグで活躍する実績があり、能力のある選手。たとえ別の選手がOAで呼ばれたとしても、その選手が活躍できたという保証はない。そのような“選手論”よりも問うべきは、OAという制度そのものだ。
OAを招集することは、五輪での結果を求めることを意味する。五輪のサッカーには23歳以下の選手のみが出場できるという年齢制限があり、若い選手たちよりも経験のある選手を呼ぶことでチーム力はアップする。
その一方で、OAを起用すれば、必然的にそれまで試合に出場していた選手、また本大会メンバーから漏れた選手は国際試合での経験を積むことができなくなる。メリットとデメリットがあるわけだ。
私はOAには反対の立場である。OAを起用してまで目先の結果を求めることに疑問があるからだ。全力を尽くした手倉森ジャパンには最大限の敬意を払いたいが、あえて問いたい。サッカーにおいて、五輪のメダルはそこまで重要なのか、と。