妥協案としてのオーバーエイジ枠
フランスが初優勝したロサンゼルス大会は、ドゥンガ(ブラジル)、ギド・ブッフバルト、アンドレアス・ブレーメ(ともに西ドイツ)、フランコ・バレージ(イタリア)、ロジェ・ミラ(カメルーン)ら、のちにワールドカップでも大活躍する選手たちが躍動した。
ソ連が2度目の優勝を果たしたソウル大会でもロマーリオ(ブラジル)、ユルゲン・クリンスマン(西ドイツ)らが注目を集めた。それでも、IOCは部分的な解禁では満足しなかった。
そして、引き続き交渉が行われたなかで、妥協案としてFIFAから出されたのが「23歳以下」という年齢制限を設けたうえでの全面解禁だった。FIFAにとっては、すでに実施していたU-17、U-20両ワールドカップに続く年代別の世界大会を創設できるメリットがあった。
FIFAはソウル大会から年齢制限を設けたいと考えていたが、IOC側が頑なに固辞した経緯がある。最終的にはオリンピックからのサッカー競技撤退も辞さないFIFAの強硬姿勢の前に屈し、1992年のバルセロナ大会からオリンピックは「23歳以下の世界一」を決める大会となった。
果たして、バルセロナ大会はスペインが初優勝をとげる。もっとも、ポーランドとの決勝戦こそカンプ・ノウに約9万5000人もの観客を集めたものの、大会全体の1試合あたりの平均入場者数は1万4134人にとどまった。
開幕前に描いていた青写真とまったく異なる状況を招いた原因を、IOCは「スター選手の不在」と分析。再びFIFAとの交渉を開始し、アトランタ大会から年齢制限にとらわれない選手を、最大3人まで招集できるオーバーエイジ枠を勝ち取っていま現在に至っている。
プロ選手の出場解禁とともに、それまでオリンピックで目立った成績を残せなかったブラジルをはじめとする南米勢が躍進。ここに東西ドイツの統一やソ連の崩壊が加わったことで、ステート・アマが活躍していた旧東ヨーロッパの共産主義国が没落していった。
そして、年生制限を設けたことで、ナイジェリアやカメルーン、ガーナなどの若い選手たちにとって、オリンピックの舞台は彼らの驚異的な身体能力と潜在能力をヨーロッパのビッグクラブへアピールして、一攫千金の夢を成就させるためのスタートラインへと変わった。