言語化によるプレー事象の整理
日本代表に4-4-2が本格的に導入されたのはハンス・オフト監督のときだった。オフトが就任した92年はJリーグ開幕の前年にあたる。当時のフォーメーションは4-4-2か3-5-2が主流。4-4-2はMFをダイヤモンドに組んだ形が多く、日本代表でも使っていた。
ダイヤモンド型では中盤の底に森保一、右に吉田光範、左にラモス瑠偉、トップ下に福田正博。ボックスのほうは後方が森保と吉田、前方にラモスと福田である。負傷者や出場停止者が出ても、この4人に北澤豪を加えた5人でやり繰りしていたので、5人とも複数のポジションでプレーしていた。
アメリカワールドカップ予選まで1年半しかなかったため、メンバーを固定化していたのだ。メンバーの固定化は選手層の薄さとして最終予選のネックになるのだが、それまでの強化は順調だった。オフト監督の功績はプレーを整理したことである。
「あれ? 試合になってる……そういう感覚でした」(柱谷哲二)
主将を務めた柱谷によると、「それまでは韓国と当たったらおしまいだった」のが、韓国に対しても互角に戦えるようになっていたという。コンパクト、スリーライン、トライアングル、アイコンタクト……オフト監督はシンプルな英語でプレーのディテールを切り取って提示した。それまでにも“あった”し、サッカーでは常に“ある”ものだが、当時の日本にはそれぞれの事象を示す言葉がなかった。事象に名前がつけられたことで、それまでモヤモヤしていたものが整理された。