「想像の共同体」としてのサポーターはスタジアムを超える
もちろん大方のサッカーファンは、そのような「私たち」がフィクションであることを知っている。そのフィクションに身をゆだね、そして熱狂するのがサポーターの醍醐味なのである。ところが、そのサッカーサポーターという「想像の共同体」は、いともたやすく政治性をもってしまうこともあるのだ。
一方で、このサッカーという「ネーション」はもともとマルチカルチュラルな作用をもつ。
FIFA(国際サッカー連盟)は、欧州のリベラルでカント的な世界認識をベースにし、世界中すべての人々はサッカーを通じて平等であるという理念を誇り高く掲げている。サッカーによって、世界はひとつになり、肌や目の色、言葉や宗教の違いを乗り越えるというコンセプトだ。サッカーは、そのようなコスモポリタリニズムに裏打ちされている。
サッカーは、コスモポリタニズムとナショナリズムがコインの表裏のように一体となり、さらにそこに、国家とは別のネーションの論理が軋きしみながら絡みあい、事態を複雑にしている。それが何を巻き起こして、どこへ行くのか、今のところ予測は不可能である。
LEDのライトに照らされた眩い緑のピッチを囲むようにして、壮麗な円形のスタジアムは、現代の神殿のようにそびえている。そのなかで起きたことは、その求心力ゆえに、スタジアムを超えて震源として世界に波及する。これは日本でも例外ではない。
そしてそれは、渋谷のスクランブル交差点の「ハイタッチ・フーリガン」から、ソウルや広州を巡り、イスタンブールやカイロのウルトラス、さらにはハンブルグの海賊「ザンクトパウリ」のオルタナティブ達にも連鎖している。
ネット右翼のようなダークサイドなナショナリズムの力と、それの裏表のようにリベラルなコスモポリタニズムがせめぎあう。ピッチのゲームと並行して行われる闘い。それもサッカーなのである。
(文:清義明)
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