オシムはなぜスタジアムを「教会」に見立てたのか?
サッカーには、ひとつの同じチームを応援する人たちの「共同体=ネーション」をつくる回路があるからだ。村と村との戦いにサッカーの起源があるとよく言われる。19世紀、故郷を失って村から都市へ出て働く労働者は、サッカーチームに故郷の代替え物を見出した。
そこでは、選手は自分たちの代表にすぎない。戦っているのはあくまでもその共同体に所属するすべての人たちなのだ。サッカーがそのような「ネーション」として機能するとき、それが国家に結びつくときもあれば、あるいは国家と対抗するものの核となることもある。それがさらに善と結びつくのか、悪と結びつくのか、これもケースバイケースに過ぎない。
人類の長い歴史のなかで、国民国家がはじまってからまだ200年程しか経っていない。それまで、国家は人々のものではなく誰かの所有物だった。それが王であったり、神であったりしたのが、ある日、「私たち」のものとなったのだ。
ところが、見知らぬ人同士が、自分たちをひとつの仲間のように意識するのはとても難しい。そのために、歴史や文学のようなものが動員される。それが荒唐無稽なフィクションである神話や、「江戸しぐさ」のような偽史でもかまわない(編注:江戸しぐさは多くの道徳教科書で取り上げられているが、歴史的根拠がないとして批判されている)。
スポーツは、その国家の歴史を補強するための物語のひとつとして機能する。「私たち」とそれ以外とを峻別するうってつけの装置なわけである。
旧ユーゴスラビアで起きたナショナリズムの狂気を目の当たりにした1人である、日本代表の元監督、イビチャ・オシム氏はサッカースタジアムを現代の教会と見立てた。地域の共同体が失われている現在、毎週末になると、年齢も性別も職業も身分も財産も関係なく、一同に仲間と一緒に信仰を捧げる場所がサッカースタジアムというわけだ。
スタジアムという教会に集まる人々は、そうしてひとつの共同体をつくっている。それを「ネーション」と言っていいし「中間組織」と言ってもいい。実際、サッカーには「宗教生活の原初形態」の模倣やパロディというにはあまりにも真摯な親近性がある。