出すまいとしてもかもし出されてしまうオーラ
チームメイトを畏怖させる存在感を放っていたのは小野となる。既存のチームで最年長だったMF阿部勇樹(当時ジェフ市原)との年齢差は2つだったが、歩んできたキャリアが桁違いだった。
フェイエノールトの主力として2001‐02シーズンのUEFAカップを制覇。A代表としても2大会連続でワールドカップの舞台に立ち、日韓共催大会ではベスト16進出に貢献している。
翻ってアテネ五輪の主力たちは、発足当時から「谷間の世代」と揶揄されてきた。シドニー五輪でベスト8に進出し、2002年ワールドカップでも中心を担った1979年生まれの選手たちが「黄金世代」と呼ばれたことへのギャップを、ある選手はこう振り返ったことがある。
「そりゃあ半端ないプレッシャーでしたよ」
そこへ「黄金世代」の筆頭格である小野が加わった。コンディション不良でシドニー五輪を棒に振っている小野のモチベーションは当然高く、チームにも馴染もうと懸命だった。
しかし、あまりにも影響力が強かったのだろう。出すまいと念じてもかもし出されてしまうオーラが、小野を中心とするサッカーへ、チームをおのずとシフトチェンジさせていく。小野が初めて合流したのは本大会直前。間に合うはずがなかった。
一方で過酷なアジア予選を勝ち抜き、アテネ切符をもぎ取ったチームには確固たる土台があった。特に最終予選はUAEラウンドで原因不明の腹痛がチーム内に蔓延し、日本ラウンドの初戦で守備の要にして精神的支柱でもあった田中マルクス闘莉王(当時レッズ)が、けがで戦線離脱を余儀なくされた。
まさに死線をくぐり抜けたチームには、揺るぎない団結心が生まれていた。チームを率いた山本昌邦監督は小野を触媒とする化学変化を起こし、さらなるレベルアップを図ろうと考えていたはずだ。しかし、残念ながらマイナスの影響を与えてしまったことになる。
自らの実体験に基づいていたからこそ、今野のアドバイスには重みがある。リオデジャネイロ五輪に臨むメンバー18人が正式に発表された直後のこと。チーム合流へ向けて、藤春はこんな青写真を描いていた。
「僕たちが合わせるくらいの感じでいければ。壁を作ったら絶対にアカンと思いますし、同期のような感覚で仲良くしゃべっていきたいですね。井手口(陽介)はかなりなめくさっているので、その点でも大きいかなと。(なめられても)オレは怒らないので、そこは大丈夫ですから」