家族の面倒もしっかり見る心優しき少年
サッカーを本格的に始めたのは、竹永小学校1年のとき。兄2人が入っていた隣の朝上小学校のスポーツ少年団に通うようになった。
拓磨少年が入った2001年当時は1学年4~5人と選手数が少なかったものの、そこから徐々に増えていき、指導に携わる清水保博コーチがクラブ化した方がいいと判断。彼が3年に進級すると同時に「ペルナSC」を発足させた。同クラブは平日3回と土日の週5回活動が基本。当時は総勢35人程度だったが、浅野家の子どもはみな揃ってプレーした。
「僕が3年のときには上2人と4番目の弟もいました。上には『勝ちたい』と闘争心が湧いてきて、お兄ちゃんを抜いたときはすごく嬉しかった。弟にも『絶対負けないぞ』という気持ちでやってました。上にも下にも競争意識を持てるという意味で3番目はよかったのかな。負けず嫌いな性格は兄弟の中でも自分と4番目(雄也さん)が際立ってますね」と彼は兄弟間の競争を前向きに捉えている。
その一方で、拓磨少年は非常にバランス感覚があり、面倒見もいい子どもだったという。
「タクは弟思いで、6番目の弟をお風呂に入れてくれたり、家事の手伝いをしたりと、本当に気の利く子どもでした。小さい頃にありがちないたずらをして近所に謝りに行くと、その家の方と仲良くなって帰ってくるくらい社交的で、兄弟の中で一番しっかりしていましたね」と母・都姉子さんは目を細める。
本人も「4番目が(ドラえもんの)ジャイアンみたいな性格なんで、仕事で家を開けることの多かったお父さんの代わりによく叱ってました。お母さんもプロになって家を出るときに『タクがおらんかったら、この家どうなるんやろ』と心配してましたね」と笑っていた。
日常的に多くの人間と関わり、切磋琢磨する生活はサッカーにも好影響をもたらした。ペルナSCの清水コーチがテクニック重視の指導をモットーにしていたこともあり、拓磨少年は毎日リフティングやドリブルなどのスキルを磨くことに精を出した。
続きは『僕らがサッカーボーイズだった頃3 日本代表への道』にてお楽しみください。