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日本代表 8年前

塩谷司、無名の存在からリオ五輪OA招集へ。引き出された潜在能力。元日本代表2人の薫陶

text by 藤江直人 photo by Getty Images

サッカー人生最大の決断、広島への移籍

 ルーキーイヤーは出場停止だった3試合を除き、全35試合で先発。2年目になるとディフェンスリーダーの貫禄すら漂わせながら、塩谷は柱谷への感謝の思いを募らせていた。

「センターバックにコンバートしれくれたことが本当に大きかった。大学3年のときまではほとんど試合に出られなかったし、あのままボランチだったら、サッカーは続けていたと思うけど、おそらくプロにはなっていなかったと思うので」

 迎えた2012年の夏。移籍ウインドーが開くと同時に、塩谷にとって3度目のターニングポイントが訪れる。清水エスパルス、大宮アルディージャ、そしてサンフレッチェから届いた完全移籍のオファー。愛着深いホーリーホック残留を含めて、塩谷はサッカー人生で最大の決断を迫られた。

 J1の舞台にすぐ立てることを考えれば、エスパルスもしくはアルディージャだった。しかし、長い目で見て、自らの心技体をさらにスケールアップさせたいと望むのならば、J1で優勝争いを繰り広げていたサンフレッチェとなる。

 思い悩む塩谷の背中を押したのは、やはり柱谷の言葉だった。このシーズンから監督を務めていたかつての盟友、森保の指導力に全幅の信頼を置いたうえで、サンフレッチェでレギュラーを獲ることが日本代表入りへの近道になると説いた。

 手塩にかけて育てた愛弟子へ。「サンフレッチェで頑張って試合に出て、日の丸を背負ってオレに恩返しをしろよ」と送り出した柱谷は、4年前の移籍をこう振り返る。

「たまに試合中で誤った判断をするので、そこを森保監督がちゃんと指導してくれれば。ウチの戦力のことだけを考えると移籍は確かに痛手だったけど、自分たちが育てた選手が上のカテゴリーで活躍してくれるのは嬉しいし、なによりも励みになるからね」

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