日本代表監督の通訳は本業ではなかった
―――どういった経緯でトルシエさんの通訳になられたのでしょうか?
98年フランスW杯後に僕は仕事を見つけて日本に来るんですけど、そこでトルシエさんが抜擢されたんです。日本サッカー協会(JFA)はなかなかフランス語の通訳が見つけられなかったみたいで、色々なジャーナリストにも相談したと思うんですよ。僕は98年W杯のときに日刊スポーツの手伝いをしていたんですが、それでその時にお世話になった方から僕に話が来ました。
でも僕はすでに本業があったし、うちの会社は契約して1ヶ月間は辞められなかった。だから最初は「多分無理ですよ、でも会うだけなら会いますよ」と言いました。でもそれはうまく伝わらなかったみたいで、会ったらいきなり僕のトライアウトみたいなものが用意されていました。
12月だったと思うんですけど、Jクラブにトルシエさんと年末の挨拶回りをしたんです。それを僕が通訳して。当時は大仁さん(前JFA会長)が技術委員長で、一緒に回りました。大仁さんとしては、それぞれ15分、30分くらいで転々と半日くらいで回る予定だったみたいなんですけど、トルシエさんが各所で2時間くらいかけてしまって(笑)
僕は日本に来てまだ1ヶ月くらいだったから、全然日本サッカー界のことは知らないし、トルシエさんが言うことをストレートに訳してたんですけど、協会としてはそれはダメだったんですね。僕の日本語のレベルが今ほどじゃなかったのもあるんですが、通訳はパイプ役だから、空気も読まないといけない。僕はKYだったから……(笑)。
でもトルシエさんはそれがすごく良いと言ってくれて。要するに他の人たちはそうしてなかったんですね。そこから、1月に福島のJヴィレッジで合宿があるということで、トルシエさんから「1週間なんだけど、会社を休んでもう1回来てくれないか」って言われたんです。
それで会社と相談しました。当時のフランス人社長はすごく良い人だったので、「先のことは約束できないけど1週間くらいだったらいいよ」みたいなことを言ってくれて、行くことができました。それで監督と気が合ってきて、リバウドやアモローゾが来日した1999年3月のブラジル戦ではじめてベンチに座りました。