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フォルランのプロフェッショナリズム。ウルグアイ人の根底に流れる“ガーラ・チャルーア”【フットボールと言葉】

シリーズ:フットボールと言葉 text by 竹澤哲 photo by Getty Images

テニスの道に進むことを決めていたディエゴ

 パブロはディエゴにはフットボールの才能があるだけに、辞められたら困ると思っていたが、しかし父がディエゴに話をすればするほど状況は、父親の意向とは反対の方向へと向かっていった。

 そこでパブロは、フォルランの姉の主治医であり、また家族づきあいをしていた、ホルヘ・デ・パウラに頼んで、ディエゴにペニャロールの合宿に参加するように勧めてもらうことにした。

 ホルヘ・デ・パウラは当時を振り返り、次のようにカメラの前で語っている。

「ディエゴは金髪の少年でした。彼はとても好奇心旺盛でした。だからいつも彼が模範にしている大人のそばにいて、いろんなことを質問するのです。ディエゴは大人のアドバイスを聞くのがとても好きで、いつも大人の話に熱心に耳を傾けていました。

 ディエゴはテニスも、当時はとても流行っていたパデルも大好きでした。水上スポーツも好きでしたし、フットボールも好きでした。どれかを選ばなければならない状況だったので、ディエゴはテニスを選ぶことに決めました。テニスの道に進むことを決めたディエゴは1年半、13歳から14歳までの間、フットボールをしていなかったのです。

 ディエゴが考えていたのはテニスをしながら、弁護士になる勉強をすることでした。そのような方向に物事は動いていましたから、パブロは苦しんでいました。ディエゴにフットボールの才能があるのをみて、フットボールを続けるように諭していました。

 しかし、言えば言うほど状況はよくない方向へいきました。まさに典型的な若者のパターンです。そこでパブロはフットボールへ進むように説得できるのは誰かと考えたのです。ある日曜日、私は医師として姉のアレハンドラの様子を見に彼らの家へ行きました」

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