激しい闘争心をむき出しにしていた現役時代
東北新幹線が開通する、はるか前の時代。福島と東京の往復は想像を絶する苦労を伴ったはずだ。当時の心境を、高倉監督はこう振り返る。
「原動力は『サッカーが好きだ』ということに尽きると思います。さらにサッカーの奥深さや面白さの虜になって、上手くなりたい、絶対に負けたくないという気持ちだけでやってきました。サッカーを始めたころと変わらない気持ちを、いまでも抱き続けていると自分では思っています」
東京・町田市にある和光大学進学と同時に、読売日本サッカークラブ・ベレーザ(現日テレ・ベレーザ)に入団。すでにデビューを果たしていた日本女子代表とあわせて、高倉氏は瞬く間に頭角を現す。
性格は高倉氏自身も認めるように負けず嫌い。その激しい闘争心を、筆者は目の当たりにしたことがある。1991年11月に中国で開催された第1回FIFA女子ワールドカップ。その壮行試合でのひとコマだ。
もっとも、壮行試合といってもいま現在のように代表チームを招き、大きなスタジアムで、大勢のファンやサポーターの歓声を背中に受けながらプレーしていたわけではない。
まだ女子サッカーがほとんど認知されていなかった時代。場所は国立西が丘サッカー場。関係者以外の観客はゼロ。相手は東京運動記者クラブ・サッカー分科会の有志だった。
つまり男子が相手の一戦。そのなかに当時はスポーツ新聞でサッカー担当を務め、とりあえず高校時代にサッカー部に所属していた筆者もいた。果たして、試合は送り出すはずの我々が先制してしまう。ゴールしたのは、全国高校サッカー選手権に出場した経験のある先輩記者だった。
当然ながら、日本女子代表にも気合いが入る。いくら男子が相手とはいえ、負けるわけにはいかない。そうした状況で、我々がコーナーキックを獲得したときだった。ゴール前へ上がってきた筆者をマークしようとしたチームメイトに対して、大きな声が響いた。
「そんなチビ、放っておけ!」
声の主は当時23歳だった高倉氏だったと記憶している。筆者の身長は自称160cm。確かに言われる通りだが、あまりの剣幕に驚いたことをいまでも覚えている。ちなみに、闘志に火がついた日本女子代表は怒涛の5連続ゴールをあげて勝利している。