「そのときにいいパフォーマンスをしている人間を選ぶ」
2002年強化推進本部内でトルシエ監督の解任論が議論され、多数決で4対3と解任賛成が上回った2000年6月。最終決定を一任された岡野会長は、2002年ワールドカップまでの続投を決めている。
理由は準優勝したワールドユース(現FIFA・U‐20ワールドカップ)から、アジア予選を圧倒的な力で勝ち抜いたシドニー五輪世代、そしてA代表へ確固たる継続性が見られたからに他ならない。
一貫した継続性が育成には不可欠という状況で、残念ながらいま現在の男子は17歳以下、20歳以下、23歳以下の五輪を結ぶルートが途切れていると岡野氏は指摘していた。
翻って女子は、高倉氏のもとで世界一に輝いた「リトルなでしこ」たちが、今度は「ヤングなでしこ」として世界に挑もうとしている。2020年の東京五輪で彼女たちが24歳となっていることを踏まえれば、U‐20日本女子代表監督との兼任は、極めてポジティブに受け止められるべきだろう。
実際、就任会見の席で高倉監督は新生なでしこの青写真をこう描いている。
「私はずっと育成に関わってきましたけど、素晴らしい若手はたくさんいます。いままで輝かしい成績を収めた選手たちと若手を融合させて、新しいなでしこジャパンを作っていきたい。
選手選考に関しては若返りということがよく言われますが、日本代表はそのときに一番いいパフォーマンスをしている人間を選んでいきます。ベテランは経験値からくるプレーのアドバンテージがあり、若手は若いからこその伸びしろがあります。それらを考えながら年齢で区切ることなく、なるべく多くの選手を選択することで競争してもらいながら、チームを作っていきたい」
日本女子サッカー界の黎明期を、高倉氏は無我夢中で駆け抜けてきた。メキシコ五輪で日本が銅メダルを獲得した1968年に福島県で生まれ、小学校入学後に男子にまじってサッカーを始めた。
サッカーを好きになるほどに、本格的な指導を受けたいと気持ちが高ぶる。やがては週末になると東京へ向かい、中学時代は東京都リーグのFCジンナンで、高校時代は三菱養和クラブで心技体を鍛え上げた。