信仰心が厚く家族を大切にする素顔
自分自身の優れた判断を強く信じるあまりに、指導者や幹部としてのキャリアを過ごしたクラブでは時に強い衝突も引き起こした。集団内における個人主義を信じる彼は、自分自身と他者に対して異なるルールを適用しているように見られることもあった。
ウィナーがヨハン・ティメルスに行ったインタビューがそれをよく表している。ティメルスは、まさにオランダ的な内省に基づいて、1974年ワールドカップ決勝西ドイツ戦での敗戦の痛みが残したものを描く悲喜劇を共同執筆した脚本家だった。
ティメルスはクライフについてこう語っている。
「彼はいつも他の選手たちに、『グループとしてプレーするべきだ』と伝えていた。だが、彼がボールを持つとそのままどこへ走って行くことも許されたが、他の選手たちが同じことをすれば彼は非難していた。集団というものは、ある時点で立ち上がってそのリーダーを攻撃し始めるものだ」
だが、嵐の前には必ず美しい時間がある。1988年にアヤックス指揮官の席を離れたあと、クライフが8年間にわたってバルセロナに教え込んだ革新的なスタイルは、世界中が羨むものとなった。
クライフという個人は、人生における様々な区分を全く気にしようとはしなかった。多くのスーパースターたちとは異なり、彼の私生活は保守的なものであった。信仰心が厚く家族を大事にする男であり、生涯を通して伴侶はダニー夫人ただ一人だった。
夫人とともに、45歳と44歳の娘2人と42歳の息子も残している。クライフの同胞たちが持たれている一般的なイメージとは正反対だが、そういう点に非常にオランダらしさがあった。
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