選手個人の価値を高めた功績
クライフはアムステルダムの労働階級地区であるベッテンドルプで生まれた。偉大なるアヤックスのデ・メール・スタジアムに程近い場所だ。細身で粋なティーンエージャーだったクライフの下積み期間はごく地味なものだったが、彼はまさに絶好のタイミングで世界に名乗りを挙げることができた。
テレビの力によりサッカーが大衆のものとなりつつあったその時代、サッカー選手たちは古い束縛を逃れ、前進への努力の成果を手にしようとしていたところだった。彼らは新種の文化的アイコンだった。
1964年にデビューしたアヤックスでその流れるような髪と軽妙なバランスを披露し始めたクライフは、この世代が新たに持ち始めた自信を体現する存在だった。彼は自分の価値に気がついており、サッカー界上層の旧勢力を挑発する気概も持っていた。
オランダサッカー協会(KNVB)幹部が遠征時に協会負担による保険をかけられている一方で、選手たちにはそれがないと知ったクライフは、自ら中心となって状況を変えさせることに成功した。
協会が締結した契約に従ってアディダスのシューズを着用するよう命じられた際にも、独自にプーマと契約を交わしていた彼は拒否した。1974年ワールドカップでは、KNVBに準備されたアディダスのシューズの縞模様を塗り消し、アディダスの3本線ではなく2本線が肩に入ったシャツを着用していた。
オランダ代表でのプレーが、自分自身だけではなくオランダ全体にとっても重要なことだと最初に認識した男がクライフだった。
その姿勢を貫きながらも、自分自身の価値を感じ取っていたクライフには、サッカーに流れ込みつつあった大金を手にすることができる力があった。ボビー・フィッシャーがチェスに対してやっていたのと同じことを、彼はサッカーに対して実行していた。