スポンサーの関係で、アディダスのユニフォームを2本線に
その試合、アヤックスは1-0で勝利。そしてミューレンが「フートボール・インターナショナル」で思い出していたように、オランダ連盟への全き蔑視から、クライフが次のゲームでも同じ背番号を着用しようと主張した。
「ヘリー、PSV戦は上手くいった。同じ番号でプレーしてみようじゃないか」クライフはこう言った。
その日から、クライフは14番を身につけた。バルセロナでは頻繁に背番号9のユニフォームを着用したが、キャリアを通じて可能な場所では背番号14を身にまとった。
“トータル・フットボール”で知られる1974年W杯のオランダ代表チームでさえも、彼の儀礼的行為は優先されることになった。
リヌス・ミケルスのチームは、アルファベット順に背番号が割り当てられており、いくぶんか奇妙な番号配分になっていた。
フォワードのルート・ヘールスは背番号1に落ち着き、ゴールキーパーのヤン・ヨンクブルートは背番号8を身につけた。
しかしながらクライフは、彼のトレードマークである14番を身につけることが許された。(アルファベット順であれば)もちろん、彼は1番だったはずだ。
同大会で、クライフはユニフォームについて風変わりな決断を下している。オランダ代表選手たちはアディダスのユニフォームで着飾っていたが、クライフにはプーマとのスポンサーシップ関係があった。そのため彼は3本線のユニフォームを着用せず、オランダ連盟はラインが2本しか入っていない特別ユニフォームをクライフが使用することを認めた。
そして2007年、アヤックスは14番を永久欠番にした。
(文:トム・シーン/インディペンデント、翻訳:中山佑輔)
【了】
(※)本記事はINDEPENDENT紙との独占契約により、記事全文を翻訳しております。
(※)現地時間2016年3月24日、ヨハン・クライフ氏が逝去したと発表されました。この訃報に際しフットボールチャンネル編集部として謹んで哀悼の意を表します。