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ペップはシティを“バルサ化”するのか? 円環する“アヤックス・スタイル”の系譜

text by 西部謙司 photo by Getty Images

“バルサ・スタイル”の源流を作り出した英国人

バルセロナで選手・監督の両方を経験したヨハン・クライフ【写真:Getty Images】
バルセロナで選手・監督の両方を経験したヨハン・クライフ【写真:Getty Images】

 バルセロナのサッカーはアヤックスの影響が大きかった。現在はむしろバルサ・スタイルとして知られているが、もともとはアヤックス・スタイルなのだ。

 ミケルスはアヤックスの監督としてチャンピオンズカップ(現在のチャンピオンズリーグ)を置き土産にバルセロナの監督に就任。アヤックスは後任のステファン・コバチ監督がミケルスのサッカーを発展させて、欧州3連覇を達成する。

 73年、アヤックスのエースだったクライフが師匠ミケルスが待つバルサへ移籍。この師弟コンビは翌年のワールドカップでもオランダ代表を一躍世界へ知らしめることになる。

 ミケルスとクライフの存在がバルサのオランダ・コネクションの始まりといえる。ただ、ミケルスの前任だった英国人ビク・バッキンガムも元アヤックスの監督で、アヤックスでもバルセロナでもミケルスの前任はバッキンガムだった。

 バッキンガムの前にはキース・スパージョンもアヤックスの監督を務めている。バッキンガムとスパージョン、クライフはミケルス以前に2人の英国人に鍛えられた。当時の選手をとしては珍しく英語が堪能になったのも、英国人監督から知識を得るためだったといわれている。

 バルセロナのオランダ・コネクションがあったように、アヤックスには英国コネクションがあったわけだ。もっともヨーロッパの多くのクラブは創成期に英国人の指導を仰いでいて、アヤックスだけの現象ではない。

 バルセロナの初代プロ監督も英国人のジャック・グリーンウェルである。 アヤックスに初のリーグタイトルをもたらしたのも英国人監督、ジャック・レイノルズだった。

 レイノルズは1915年に就任、2シーズン後にリーグ優勝、計8回のリーグ優勝をもたらした。3回におよぶ指導期間を合わせると24シーズン。のちのトータルサッカーに通ずる戦術やユース育成の礎を築き、アヤックスで最も成功した監督とされている。

 1919年には初代オランダ代表監督も務めた。もともとドイツ代表監督になる予定だったのだが、戦争勃発でプランの変更を余儀なくされてオランダに来たのだそうだ。

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