女子サッカー界に漂っていた、言いようのない危機感
予選リーグ初戦でベトナム女子代表を7対0で下し、好スタートを切ってから2日後の4月20日。練習中、右ひざに激痛を覚えた澤はそのままピッチを去り、2日後のタイ女子代表戦を欠場している。
精密検査は受けていないが、ベッドから立ち上がれないほどの激痛が軽傷ではないことを告げる。最難関と見すえていた準決勝をにらみ、情報戦の意味合いも込めて澤の状態はチームの内外に伏せられた。
迎えた北朝鮮戦の朝。選手たちは日課でもある宿泊ホテル周辺の散歩に出かける。途中で立ち寄った熊野神社で必勝を祈願するなかで、澤は唱えるように言葉を絞り出している。
「他には何も望みません。だから、今日だけは勝たせてください」
キックオフを控えて包帯が痛々しく巻かれた右ひざに痛み止めの注射を打ち、鎮痛剤を服用し、座薬も入れた。熊野神社で買ったお守りを、必勝の祈りを込めてユニフォームのパンツの紐の部分に固く結びつけた。選手生命をかけてでも強行出場しなければいけない理由が、澤にはあった。
日本女子代表は2000年のシドニー五輪出場を逃していた。バブル経済崩壊の余波を受けて撤退チームが続出するなど、縮小傾向にあった国内女子リーグにさらにマイナスの影響を与えていた。
女子ワールドカップ出場は続けていたが、当時は五輪が与えるインパクトのほうがはるかに強かった。そうした状況でシドニーに続いてアテネも出場を逃せば、黎明期から紡がれてきた日本女子サッカーの灯そのものが消えてしまう。得体の知れない危機感があった。
いまでこそ待遇は改善されたが、澤がデビューした1993年当時の日本女子代表は、遠征すれば大部屋に雑魚寝は当たり前。遠征費の半分を自己負担するケースも少なくなかった。所属チームの練習開始時間は決まって夜。選手のほとんどが昼間に仕事を抱えていたからだ。
それでも、サッカーが大好き、女子サッカーをメジャーにしたいと一途な心でボールを追い続けた先輩たちが築いた土台の上で、澤は多感な思春期を駆け抜けた。そして、19歳にして日本女子代表の副キャプテンに指名されたときに、受け取ったバトンの重さを知った。幾重もの夢と希望が託されていたからだ。