広島にとって苦いCSの記憶
11年ぶりの復活となった明治安田生命Jリーグチャンピオンシップ。新たなトーナメント方式の“決勝”にシードされた年間勝ち点1位のサンフレッチェ広島だったが“シード”よりも“重圧”を与えられた決勝への挑戦だった。
リーグ戦は年間34試合で勝ち点74。奇しくも前回のチャンピオンシップから1シーズン制になって以降の最多勝ち点を獲得、さらに最多得点(73)と最少失点(30)を同時に達成してのものだった。
それが決勝のホーム&アウェイで敗れれば、シャーレを手にすることができない。自らが1年間信じ続けた積み重ねと向かい合いながらも、一方で勝負のルールを受け入れ乗り越える重荷を背負った、新世代のチャンピオンシップ、初代の決勝シードチームだった。
1994年、ファーストステージ・サントリーシリーズをサンフレッチェ広島は制した。風間八宏主将(現川崎フロンターレ監督)がカップを掲げる映像は、長らく広島の映像メディアでサンフレッチェの栄光を語る代名詞となる歓喜となった。
広島の中心地、本通りはJリーグブームのファンと相まってすし詰め。酒樽を割っての歓喜も昭和の風情と共に残った。当時は1991年に広島スポーツの盟主、プロ野球の広島東洋カープがリーグ制覇をなしてさほどの時を経ていないこともあり、サンフレッチェのステージ優勝はかつてのスポーツ王国の広島を謳歌する快挙となった(話題となったクリスタルのカップを壊した後の“2代目”はちゃんと今でもクラブの応接室にある)。
だが、広島が得た“半分の”夢は、日本サッカーの盟主の前に年間で頂点に立つ重さを見せつけられる。1994年11月26日、Jリーグサントリーチャンピオンシップ。
時にホーム・広島ビッグアーチは42,316人の入場を記録している。同年9月3日NICOSシリーズのヴェルディ川崎戦で数えた42,505人に次ぐ入場者数は通路で立ち見をしていたほどであり、現在の運営基準で考えるなら、もう二度とない4万人超えである。