Jリーグ参入後に育まれたセレッソの伝統
セレッソ大阪にはかつて「何苦楚魂」という合言葉があった。そもそもの起源は、Jリーグにおける歴史と実績で大差をつけられていたガンバ大阪への対抗心だった。
たとえば2011年シーズンのACL。決勝トーナメント1回戦で実現した「大阪ダービー」を1対0で制した直後に、決勝弾を決めたヒーローのDF高橋大輔はこんな言葉を残している。
「ここまでの歴史の中で、大阪と言えばガンバ、という印象を覆すことができなかった。こうして舞台が整ったなかで、大阪にはセレッソもあるということを何としても見せたかった」
関西サッカー界は、セレッソの前身であるヤンマーディーゼルがけん引してきた。1965年にスタートした日本リーグでは8チームのひとつに名前を連ね、不世出のストライカー釜本邦茂を擁した1970年代には黄金時代を迎えた。
日本リーグを制すること4度。天皇杯も3度制した名門には入部希望者が殺到し、まともな練習ができないとの理由から、1972年には二軍となるヤンマークラブが創設された。
ヤンマークラブは日本リーグ2部にまで昇格したが、会社側の都合により、1979年限りで突然の廃部を告げられる。納得できない指導者や選手たちが松下電器産業サッカー部を立ち上げ、奈良県リーグ2部から再起を期したのが1980年。このチームがガンバの前身となった。
いわば関西の「本家本流」がヤンマーディーゼルで、松下電器は「亜流」だった。しかし、両者の立場は1991年2月に逆転する。10チームで旗揚げされたJリーグに、後者がガンバ大阪に名称を変えて関西から唯一のプロチームとして参戦したからだ。
プロ化の波に完全に乗り遅れた前者が、セレッソ大阪としてJリーグに昇格したのは1995年。以来、冒頭で記した「何苦楚魂」をピッチで体現しながら戦ってきた。
しかし、3度目のJ2降格を喫した昨シーズンから今シーズンにかけて、セレッソの戦いから伝わってきたのは「何苦楚魂」ではなく、迷いや混乱といったネガティブな要素ばかりだった。