レアルが“横取り”したルイス・エンリケ
90年代が始まるまさにその頃、FCバルセロナはスポルティング・ヒホンと提携関係にあった。
当時アスルグラナのトップチームの監督はヨハン・クライフであり、バルセロナのコーチ陣からのリクエストがあればアストゥリアス州のクラブから1名を獲得する代わりに1億ペセタの支払いをすることが提携の契約書に明記されていた。
ルイス・エンリケは、カンプ・ノウのコーチ陣によって指名された最初の選手となった。21歳になる直前のフォワードは、クライフとそのセカンドコーチのカルラス・レシャックのお眼鏡にかなった。彼らはポテンシャルの高いチームの中でルイス・エンリケのようなタイプの選手は何の問題もなくフィットするだろうと踏んでいた。
しかし、事態は急変する。アスルグラナ側の関係者が交渉のため現地に飛ぶと驚くべき事実が待っていた。
バルセロナがルイス・エンリケと契約する意向を表明したことで、事前の提携契約に従って2クラブ間で合意が交わされるはずだったのだが、スポルティング・ヒホンの幹部はルイス・エンリケには2.5億ペセタの価値があると主張し始めたのだ。
これは推測にはなるが、すでにこの時、レアル・マドリーがスポルティング・ヒホンとルイス・エンリケ獲得に向けた合意に達していたのだろう。ルチョの1つ上のマンハリンの移籍交渉においても同じようなことが起きた。
ヒホンが提携契約で明記された額に見合う選手としてルイス・エリケの代わりにバルセロナに差し出したのは同じフォワードのファネーレだった。しかし、彼はバルセロナのコーチ陣たちを納得させるほどの選手ではなかった。
数週間後、レアル・マドリーはルイス・エンリケとの契約を正式発表した。バルセロナでの生活が待っていたはずのその若者は、荷物をまとめ、お気に入りではないクラブへと向かった。ルイス・エンリケは職業としてのサッカー選手の運命を受け入れた。(続きは『ルイス・エンリケ 最適解を導き出す信念と信頼のリーダーシップ』でお楽しみください)