“器用貧乏”カーニー、8年ぶりの母国復帰
それでも、ピム、オジェック体制下でコンスタントに代表に呼ばれたカーニーは、2回のアジアカップ(07年、11年)、10年のW杯のメンバーにも選ばれるなど現時点で代表48キャップを誇る。
そんな彼の代表でのキャリアのターニングポイントとなったのは、日豪戦となった11年アジアカップの決勝。李忠成の芸術的ボレーを誘発することになる怠慢な守備で、カーニーは悲願にあと一歩での敗退のA級戦犯として大きな批判を浴びた。
その後もオジェック体制下では代表に招集され続けたが、オジェック退陣と同時に彼の代表でのキャリアも終焉を迎えた。彼の代表での最後のプレーはオジェック解任直後にアウレリオ・ヴィドマー(筆者注:彼もまたサンフレッチェ広島でプレーした)代行監督で臨んだカナダ戦で、その後のポスタコグルー体制ではお呼びが掛からないまま今に至っている。
そんなカーニーのクラブでのキャリアも流転する。アジアカップ開催時はイングランドのブラックプールに所属していたが、クラブがプレミアリーグから降格と同時に退団、スペイン2部のアルコルコンに移籍。
その後は、ウズベキスタンのブドニョコル、米MLSのNYレッドブルズと1年ごとに移籍を繰り返して、そのいずれでも満足できる活躍は見せられなかった。
そして昨年2月、カーニーは遂に流転のキャリアを終え母国へと戻る決断を下す。ジェッツと契約を交わし、実に06/07シーズン以来のAリーグ復帰を果たしたのだ。
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