苦しい経営の中でも妥協許さなかった育成への思い
脳裏にはJR平塚駅前で、横浜F・マリノスのバッグをもったサッカー少年を何度も見かけたときに抱いた一抹の寂しさが刻まれていた。川崎フロンターレ、横浜FCを含めて、Jクラブが4を数える神奈川県で生き残っていくことへの危機感も頭をもたげていた。
育成組織だけはなくしてはけない。湘南ベルマーレをトップとするピラミッドの裾野は、どんな状況でも大きく広がっていなければいけない。
理想論であることはわかっていた。資金をやり繰りする方策も、すぐには思い浮かばなかった。それでも眞壁氏の提案は受け入れられ、中学生以下の普及・育成部門は存続された。
2002年4月には、NPO法人湘南ベルマーレスポーツクラブを設立。ジュニアユース以下を移管した。Jリーグで初めてとなるNPO法人の設立には、トップチームの経営状況に左右されることなく、普及・育成年代を地域全体の「聖域」にしたいという思いが込められていた。
2012年シーズンを戦いながら、眞壁社長はこんな言葉も残している。
「育成組織から育ってきた選手たちに対して、ベルマーレのアイデンティティー、あるいは地域からの応援といったものがさらに盛り上がらないようであれば、そこまでお金をかけて育成をやるべきじゃないという流れになってしまう。
だからこそ、今年はようやく下から育ってきた選手たちで勝負がしたかった。そのためには、監督は曹じゃなきゃダメだった」
反町監督の辞任を受けて、ベルマーレは3年間の反町体制を支えた曹コーチを昇格させた。トップチームを率いた経験はない。それでも、クラブの未来を託すだけの理由があった。
曹監督がベルマーレの一員となった軌跡をたどると、2005年にまでさかのぼる。育成部門の再建を託された大倉智強化部長の脳裏に浮かんだのは、早稲田大学ア式蹴球部の1学年先輩だった曹貴裁だった。